私がなぜ海外挑戦しようと思ったか。

私がなぜ海外挑戦しようと思ったか。

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God morgen!

こんにちは!網谷です。

今回のブログは私が海外移籍をしようと思ったきっかけについて書きます。

はじまりは、SONYに入社してから3年目の日本選手権が終わった後のことでした。

その年の日本選手権は三重バイオレットアイリスと対戦しSONYは2回戦で敗退。私のプレータイムはというとほとんどありませんでした。

振り返ると1年目、2年目と同じようにシーズンを通してプレータイムはほとんどなく、悔しいシーズンを送っていました。

その時にふと「私は何をしているんだろう」と思いました。

”飛田選手を超えなければ試合には出られない”

入社当初から監督、チームメイト、応援してくださる会社の方々にはいつも言われていたので、それは痛いくらいわかっていました。

しかし、憧れのGKを越えるのは自分が思っていたよりも遥かに高い壁のように感じていました。

プレーだけではなく、チームメイト・監督から絶大な信頼があって、チームを後方から鼓舞するその存在感というのは私が1年、2年練習したからと言って超えられるものじゃないと思っていたからです。

「超えたい、超えるんだ」

もちろんその思いはありました。そのためにSONYに入社しました。

しかし、何一つ飛田選手に勝てない自分の状況に、頑張りたい気持ちと諦めそうな気持ちとで日々葛藤していました。

その時に同じ大学の先輩に言われたある一言。

「移籍を考えたら?国内、もしくは海外でチームを探すとか・・・?」

移籍については正直考えたこともありませんでした。ましてや海外移籍など。

大学を卒業したら、選手を引退するまでその実業団、もしくはクラブチームでプレーすることが当たり前だと思っていたからです。

しかし、当初の日本リーグはどこのチームもGK争いは熾烈で「移籍はできない。むしろ移籍は自分にとって今の状況からの逃げの選択」と思っていました。

自分はどうしたいのか、移籍よりもまず飛田選手を越えるのか。そもそも本当に移籍したいのか、自分にその覚悟と意志はあるのか・・・もう一度考えることにしました。

年が明けて2017年1月。海外移籍を決意して監督と個人面談をしました。

「海外挑戦したいです。環境を思いっきり変えてもっと成長したい、GKのレベルを上げたいです。もう同じ様なシーズンを送りたくないです」と。

しかし監督の答えはNOでした。

私自身、考えが甘かったです。いきなり頭に浮かんだ事と、取ってつけたような理由で監督に分かってもらおうなんて。

”そんな大きな事を言う前に結果を残せ”

私はそう受け取りました。その時は死ぬほど悔しかったです。きっと負け犬の遠吠えの様に監督には聞こえたと思います。しかし、納得せざるを得ない状況でした。

その面談の後、まずはSONYで結果を出すんだと決意して必死にプレーしました。少ないプレータイムでも積み重ねていくんだと。

しかし、その2016ー2017シーズンはプレーオフ進出は叶わず、日本リーグの全日程が終わりました。その後のオフ期間で今後の自分の競技人生について考えました。引退した時に自分が幸せだったと言える競技生活とはどんな終わり方だろうかと。

私が出した答えは、

”2020年に開催される鹿児島国体までSONYでプレーする。その時私は29歳になる。正GKになって会社、チーム、応援してくれた全ての人に自分のプレーを見てもらって、悔いなくハンドボール人生を終わる” でした。

それが自分にとって一番幸せな選択なのではないかとその時は考えました。

海外移籍は夢のまた夢。行きたいという気持ちだけで行けるものではない。

そう言い聞かせて海外挑戦するという気持ちに蓋を閉める形で諦めました。

それから1年半後、私に転機が訪れました。

一回で書ききれそうにないので、この続きは次回のブログに書きたいと思います。(本当にすみません!直ぐ書きます。)

暫しお待ちください。

今回も読んでいただきありがとうございました!

 

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